ことばの惑星通信 

人間ってなに?ことばってなに?生きるってなに?日々考えることを綴ります。

人はどうして語るのか 

先日、永野三智さんという方のお話を聞く機会があった。

永野さんは一般財団法人水俣病センター相思社常務理事で、

水俣病患者の相談窓口をされている。

そしてその体験から一冊の本を書かれた。

 

みな、やっとの思いで坂をのぼる?水俣病患者相談のいま

みな、やっとの思いで坂をのぼる?水俣病患者相談のいま

 

 先日は生のお話を聞けるということで参加。

実はお話のほうが先であとで本を読んでる。

 

私は、水俣病にそんなに関心があったのか。

いえ、ほとんどなかった。

というか、すでに済んだ話だと思っていた。

はっきり言ってそんな話は面倒だと思っていた。

 

水俣病はすでに終わった過去の話などではなく、

実は今も続いている。

今も患者さんはいて、しかも50代、60代の方たちが症状を発症している。

症状は時間を経てからもあらわれる。

 

水俣病認定を受ける申請をされている人たちがたくさんいる。

でも申請しても受けられる人と却下される人があるという事実。

永野さんは却下される人たちの悲しみを思う。

 

永野さんのお話を聞いて、チッソ工場から排出されてきた汚染水が原因であると

わかりながらもどれほどの期間、国はそれを認めず、患者を認めず、救済せず、

ほったらかしにしてきたのか、誰も責任を取らず、患者だけを増やしていき、

今もまだ苦しめ続けているということを知る。

そしてどれほどの多くの日本人が無関心でい続けたのかということを。

 

声を出せない人たちの思いに寄り添い、「私のするべきこと」に全身全霊で生きる人。

永野三智さんを見ながらそう思った。

 

「天は人を選ぶ」ってことばを思う。

困難に立ち向かい、一番弱い人たちに寄り添い、ことばにして伝え、道を開く人。

きっとそういう人は誰でもいいわけじゃない。

以前にエリザベス キューブラーロスの自伝を読んだときにも感じたけれど、

やはり選ばれるのだ、本人も知らないうちに。

 

人生は廻る輪のように (角川文庫)

人生は廻る輪のように (角川文庫)

 

 

永野さんは語る。

声なき人たちの声を。

悲しみ、怒りを。

患者さんの心に寄り添いながら、

いつのまにか当事者自身になったかのように話している。

私にはそう見えた。

その語る姿はまるで代々伝わる民族の話や昔話を語る芸をする人たちのようにも見えた。(もちろん永野さんの語りは芸ではない)

 

語るってなんだろう。

人はどうして語るのだろう。

 

「人間だけがことばを持つのは、人間が語り継ぐ者であることの証」

と、作家の田口ランディさんが言う。

 

寄る辺なき時代の希望―人は死ぬのになぜ生きるのか

寄る辺なき時代の希望―人は死ぬのになぜ生きるのか

 

 ランディさんも水俣に出かけている。

そこで感じたことが先のことばになっている。

 

どうして語るのだろう。

語り継ぐのだろう。

そもそもことばとはいったい何で、どうして人間だけがことばを話すのだろう、

どうしてことばが生まれたのだろう。

 

私は「死」ということを抜きにしてはことばについて考えることは

むずかしいのではないかと思う。

「必ず死ぬのになぜ生きるのか」

「生きてるとは、人生とはなにか」

だれもがいつか持つ疑問で、一生答えの出ない疑問。

 

死を認識するのは自分の死ではなく、他者の死によってではないでしょうか。

自分の死はわからない、だって死んでるから。

でも他者の死はわかる。

今まで生きてきた人が動かなくなる、朽ち果てて腐っていく。

それを恐ろしいと思う。

そして、一番は愛する人を失うことの悲しみではないかと。

 

愛する人が死によってどこかに行ってしまう。

もう二度と会えなくなる。

その悲しみを越える悲しみなんてないのでは。

 

人は悲しみを誰かと共有したくて、語り始めたのではないのかと思うのです。

 

相思社に来る人たちはみんな自分のことを話に来る。

やっと来れましたと語る。

ずっと口を閉じて、心を閉ざしてきた思いを語る。

まるで心に残したままではあの世に行けないかのように。

そして永野さんが伝える、その人に成り代わって伝える。

 

語ること。

そのことは人間にしかできないこと。