ここにいるよ!ひとり哲学のススメ

人間ってなに?ことばってなに?生きるってなに?日々考えることを綴ります。

猫のように

猫のイヌ化という記事を読んだ。
犬は飼い主に懐くが、猫は家につくと昔からいうが、その猫がイヌっぽくなっていると。

どうも犬は節操もなく飼い主の人間に媚びるが、猫は毅然として常に孤高であるというそんなイメージがある。
犬には犬の理由があるがそれはここでは割愛。

実際、飼い主の家以外にも気楽に我が家のように過ごす猫もあるようで、どうしようもない浮気男みたいなもんだと。
その猫のイヌ化が最近の傾向なんだそうだ。
動物は食と生殖をコントロールされると家畜化していくという。
猫は犬と違って散歩に出ないから、家猫はその家の中以外に出られないのも最近のことで、だいたい野良猫もあまり見なくなった。

私の家の近所にはよく見る野良猫がいる。
食べ物には困っていないようでふくよかだ。
誰か餌を与える人がいるのだろう。
たまに見かけるといつも、頑張って生きてるね!とうれしくなる。

その猫が今朝我が家の駐車場に停めてあるスクーターの座席に座っていた。
朝日を浴びて暖かかったのだろう。
でも私の姿を見るとすぐ飛び降りた。
少し離れた場所で私を見ている。
私はひさびさに会ってうれしくて、おいで!と呼んだけどもちろんそばには来ない。

所詮野良猫、簡単には遊べないよねと諦めて家の中に入ろうとしたけど、ふと思い立ちもう一度呼んでみようと猫を追いかけてみた。
猫はいつのまにか20mほど先を歩いていた。
住宅街の道路を一匹で、しゃなりしゃなりと歩いている。
どこに向かうのか、振り返りもせず。

死んでも腐らないからだ

友人との日常の会話で、「最近になってアレルギーが出て」という話題が盛り上がる。

盛り上がるというのはどういうことかというと、「わたしも」って人が多いということです。

なんだか最近の乗らなきゃいけない流行りみたいに、花粉症やら食べ物のアレルギーやら聞かれます。

私の知ってる人たちほとんどがなんらかのアレルギーを持っている。

そして有名人の癌、白血病、しかも若い人たちが、増えている事実。

 

「二人に一人がガン」だとか、「一億総アレルギー」とか、発達障害を持つこどもも増えていること、アトピー、そして不妊症の増加も。

 

二人に一人がガンだと聞いて、それほど驚かない人たちが多いのも驚きます。

だけど、おかしいでしょうこれ。

現代病ということばで片づけてしまえるのかな。

それに対処するための薬の開発もされていますが、対処療法をどんなにしてもこの傾向が収まる兆しが見えない。

環境、空気、社会生活による精神的ストレス、さまざまな要因が考えられますが、大事なことをけっこう見逃しているのではないでしょうか。

当たり前すぎるくらいあたりまえに私たちの生きることに関わるもの。

 

食です。

食べ物はどうなんだろう。

日常にはびこる添加物、化学薬品漬けの食品、高濃度農薬の野菜。

私がそこに気をつけるようになったのはこどもが生まれたときでした。

でもいつしかそれも忘れてほぼ気にしないで(よほどのものでない限り、たとえばランチパックみたいな保存料使ってるでしょってわかるもの以外)添加物あるとわかってて食べるようにも、こどもにも食べさせるようにもなってしまってた。

ここにきてそれを振り返る。

スーパーでは必ず裏の食品表示を見るようになりました。

ほとんどの加工食品には添加物が加えられてることに驚きます。

 

冗談で、「私たちの世代(50代から下)は死んでも身体が腐らない、保存料たっぷり身体にあるから」なんてことを聞いても笑えない。

 

そして今は「遺伝子組み換え」「ゲノム編集」による作物、食品が出てきています。

気を付けないといけないのは、実際に口にするものだけでなく、たとえば食肉に関してもその家畜たちが食べてる餌、野菜の肥料に遺伝子組み換え作物が使われているという事実があるということです。

つまり、ほぼ絶対毎日口にしてるということでも。

 

これは大変な問題だと。

でも一朝一夕にして解決する問題でもない。

じっくりと時間をかけて確かなエビデンスを得、理論的に考えていかなければいけないでしょう。

ヒステリックに叫ぶのでもなく、人に強要もしない、かといって知らぬ顔はもうできない。

知ってしまったら知らなかったときには戻れない。

 

と、そんなときに出会ってしまった本。

これから読む。

しっかり勉強しよう。

 

パンと牛乳は今すぐやめなさい! (3週間で体が生まれ変わる)

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桜桃の味は 落語の香り

イランの映画「桜桃の味」を観た。

 

桜桃の味 ニューマスター版 [DVD]

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 一人の中年の男が自殺したくて、その手伝いをしてくれる人を求めて

ひたすら荒れた丘を車で回り続ける。

一人でいる若い男性を探す。

車に誘うととにかく質問する、出身はどこかとか、学生なら専攻は何かとか。

そしてある場所で車を停めていうのです。

「ここに掘ってある穴に自分は薬を飲んではいる。

あくる日に来て自分の名前を呼んでほしい。

返事があれば手を出して穴から出してくれ。

もし返事がなければシャベルで20杯土をかけてくれ」というもの。

お礼のお金は車のダッシュボードにある、持って帰ってくれと。

 

イスラム教では自殺は戒められている。

あなたの自殺を手伝えば、自分は殺人に手を貸したことになる。

イスラム教では殺人もまた戒められていること。

誰もやりたくない。

そんなことに関わりたくない。

 

若い男性を2人まで誘ったけれど断られる。

3人目に誘ったのは年配の男性。

今度はその人がひたすらしゃべる。

男の自殺の手伝いという目的を知って、なんとか気持ちが変わればと

自分もまたそうだった、人生に絶望して自殺をしようとしたことがあるという。

 

年配の男性が自殺を思いとどまったのは、首を吊ろうと登った桑の木の実を食べたから。

それがたまらなく美味しかったから。

語られる桑の実をどんどん食べたという話を聞いていると、

桑の実ってどんなんだったっけ?とわからない私もなんだかとても美味しそうで

みずみずしくて、柔らかくて、胃に染み渡っていくような感じを体感する。

 

ひたすら車を運転しながら荒れ地をグルグル周り、

自殺したい運転手と同乗した男たちが話す、ただそれだけの場面なのです。

 

そしてえ?っと驚くラスト。

 

監督の思惑はよくわからないけれど、

このラストと言い、ひたすら運転しながら話すことと言い、

男の自殺のやり方も、なんだかおかしな発想と言い、

これって、まるで落語だなって。

 

頼むやってくれ、いや無理だ、

そんなんいわんと、なにいうてんねんっていう。

でもって、最後は「お後がよろしいようで」なんて終わる感じ。

漫才なら「なんでやねん!もうええわ」みたいな。

 

この映画の感じ、なにか知ってるような気がしたのはこれだったのかも。

 

 

 

 

大きいわたしと小さいわたし

なんでそんなことに気づかなかったのか!と思うときがある。

こどもの絵本とか、詩とかあまり関心持ってなかった分野に興味が。

きっかけはこれ

スイミー

 

スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし

スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし

 

仲間はみんな小さな赤い魚だけれど、スイミーだけは小さな黒い魚。

みんなと楽しく暮らしてた。

あるとき、大きなまぐろがやってきてスイミーたちを襲う。

まぐろは仲間たちをみんな飲み込んでしまうが、

スイミーだけは生き残る。

ひとりぼっちになったスイミー

暗い海の中を一匹で泳ぐ。

こわくてさびしくて

そこで出会う海の生き物たち。

くらげや海老や、うなぎや、いそぎんちゃくとか。

見たこともない姿の生き物たち。

そして再び出会う同じ姿の小さい魚たち。

みんなで固まって大きな魚の形になってみる。

スイミーは一匹だけ黒い魚だから、目になった。

その姿を見た他の大きな魚たちがどんどん逃げていく。

 

そんな内容。

ずっと、「みんなで協力すればできないことはない」っていう解釈でいた。

 

なんと単純な。

と、思ったのは「大きい私(大我)と小さい私(小我)」の話を友人にしたときだ。

 

「他人の痛みはわからない、他人の心もわからないのは、それは小さいほうの自分からしか見ていないからだ」

小さい自分とはなにか?では大きい自分とはなにか。

大きい自分は「森羅万象すべて、深いところの自分はすべてであり、すべての事象とつながっている」

小さい自分は「それぞれが別々の人間」

「小さい私は自分のことだけだけれど、大きい私は他者の痛みや悲しみを理解できる」と話したら、「それってスイミーだよね」と答えてくれたことだった。

 

スイミーってあの魚の物語?

それがそんな意味を持った物語なのか。

と、それでこの絵本を借りてまた読んでみることにした。

 

スイミーはひとりぼっちになってから旅をする。

そこで見たこともない姿かたちの生き物たちに出会っていく。

絵本は、一番たくさん絵が描かれているところが作者が言いたいメッセージが込められているのだそうだ。

だからそこのところをよくよく考えてみると良い。

 

スイミーでは、

このひとりぼっちのスイミーが海の生き物たちに出会っていく場面に多くのページが割かれている。

 

孤独な旅人。

人間の人生も同じ。

人間はみんな生まれてくるときも死ぬときもひとりだけれど、

実は人生をすべてたったひとりで旅している。

親がいてもこどもがいても、伴侶がいても、友だちがいても人間は結局ひとりで自分の人生を創っていく。

 

そのひとり旅で出会うできごと、人々。

そこで体験すること、感じることが「わたし」を変えていくのか。

生きているとは感じることがすべてと私は常々思っているのだけど、

感じて、何ごともなく過ぎていくのではなく、変化していく。

それが昨日のわたしと今日のわたしは違うということともいえる。

そうでなければ、生きてる意味なんてあるのかな。

生きている意味。

 

旅の果ての行きつく先は「すべてに繋がっていく」こと

こころ?いのち?それともなんだろう、たましいとか?

 

小さいわたしは大きいわたしを目指すのではないかと。

生まれてきて死ぬまでの人生に意味があるとするなら

きっとそれではないかと。

 

 

赤ちゃんはきっと思ってる、気づけよ、おとな!

考えるときにはことばを使います。

頭の中で思う時だって、ことばで自分と対話している。

赤ちゃんの頭の中はどうなのだろう。

まだおとなと同じ表現することばを持たない赤ちゃんには

頭の中で何が起こってるのでしょう。

まったく無?

それともなにか音みたいなもので対話してる?

赤ちゃんも考えている?

考えている、それはなんだかなさそうだ。

では、おなかすいたとか、不快だとか、うれしいとかの

本能とか感情だけ?

残念ながらおとなになるにしたがってどうだったか忘れていく。

だから誰もことばにできない。

ことばを持つにしたがって、ことばにできないことができていくみたい。

 

日々赤ちゃんのまわりにも動きがあるから、

つまりいつも人がいて世界があるから、

なにかしら感じることはあるはず。

感じることだけがすべてかも。

 

まわりの世界を感じて、繋がっていこうとする中で

赤ちゃんは「繋がるためのことばという物質」を生み出しているのかも。

話せるようになったねとか、使えるようになったねっていうのは

大間違いで、

一見あることばを獲得してるように思えるけれど、

実はあらたに生み出しているのではないのかなと思うのです。

おとなはできるようになったことをすごいね!って上から目線で言ってるけれど、

赤ちゃんの側にしてみれば、

「違うだろ、新しいもの生まれてるんだよ、もっとちゃんとみろよ!

気づけよおとな」ってもんなのでは。

 

箱のなかの世界

私の住む町は山を切り開いて作ったいわゆるニュータウンという街です。

時間が経つのは早くてあっというまに街ができてもう20年くらいにはなるのではないかと思います。

家やショッピングセンターやお店もどんどんできて、移り住んだときには

ほんとに不便だったのがうそのように便利になったし、大きなマンションも増えて

人も町全体でマンモス規模で増えているのではないかと思います。

ただ、よく思うのですが、人が歩いていない。

公園でこどもが遊んでいない。

老人が外でボーっと座ってたりしない。

駅前は人も多いけれど、少し離れると住宅街なのにほんとに人が歩いていない。

四角い箱のような家が立ち並んで、一個一個はよく見ると綺麗ですが、

でも町全体を見回すと、同じ形の箱が並んでいる、そういう感じです。

こどもたちはどこにいるんだろう、人々はどこに行ったんだろう。

ついそう思ってしまいます。

休みには大きな公園で遊んでいる親子もいますが、他の街から来てる人たちだったりします。

公園で親子で遊ぶのは特別行事みたいな気がします。

 

特にこどもの姿がなかなか見れないのがなんだか。

家の中でゲームやスマホで動画を見てるのかもしれない。

 

お休みの日に小学校にこどもたちが集まってくるときもありますが、それはサッカーとか野球の試合や練習だったりする。

私がこどものころは、遊び相手がほしくて近所の友だちの家に「○○ちゃーん、あそぼ!」って大きな声で呼びに行ったり、公園に行けばだれかいて一緒に遊んだりしてたもの。

それでなくても、ぼーっと一人で過ごすことも多かったような。

 

サッカーや野球もいいけれど、それって大人が指導してスポーツのルールがあって、そしてその中でこどもたちは「指導」されるもの。

こどもには、ボーっと過ごす自由な時間があるのはいいのではないのかって思うのだけど。

 

常に、おとなに管理されてる社会を生きている。

ボーっとして足元のアリをずっと見ていたり、友だちと新しい遊びを生み出したり。

そんなことはなくなったとはいわないけれど、昔に比べたらずっと少なくなってるのでは。

いろんな意味で管理社会。

ボーっとひとりで歩いているのも犯罪に巻き込まれる心配もしないといけないからというのも、悲しい社会になったものだと思う。

 

そして、家ではスマホやゲームという機械が相手。

小さな箱が良くも悪しくも世界を見せる。

想像だか現実だかわからなくさせてしまったりする。

 

でもって、子育て世代のための街というのもなんだか胡散臭い。

そうやって巨大マンションが増えていく。

偏っているのです、人間の住むことさえも。

お年寄りとか、いろんな世代がいて街ができているほうがなんだか人が人として暮らしやすいのではないのかと思うのですが。

箱の並ぶ街から見えるのはどこか偏った無機質な風景。

箱からはなかなか人の姿が見えない。

そういう私も箱の中の世界で生きているけれど。

 

 

 

 

考えることが人生すべてだという

ある日突然の出会いでそれまでとは大きく自分の人生が変わるってことがある。

それは人物だったり、本だったり、映画だったり、できごとだったり。

今まで何度も何度もそれを繰り返し、昔の自分とは違う、昨日の自分とも違う、

あなたの知ってる私とは違うを感じていく。

 

本との出会いは大きい。

ほんとに自分を大きく変える。

最近はつい数か月前までは思いもしなかったこと、「哲学」なんてのに心掴まれている。

 

「人生、考えることがすべて。それ以外にやることなんてない」と

哲学者(ご本人はそう呼ばれることが好きではなかったようですが)池田晶子さんは言う。

人間はインナースピーチが90何パーセントだと聞いたことがある。

たとえば、雑念を振り払って頭の中を空にする、つまり、何も考えないようにするってことは実はとても難しい。

私はときどき、「他の人もこんなに四六時中頭の中で語っているのだろうか」と思うことがあるのだけど、他の人の頭の中はわからない。

 

独り言というより、頭の中でなにかに、だれかに語っているかのような。

それは、人間がことばを持ってしまったからなんだろうか。

ことばを持ったから考えるようになったのかな。

 

池田晶子氏の「14歳からの哲学」を読む。

哲学について、中学生年代の人たちに向けてわかりやすく、やさしく語りかけている。

この人の他の著作を読んだらわかるけれど、けっこう辛辣、はっきりものを言っている。

 

そしてどこまでも、それで?それは?どういうこと?って質問で食い下がるそんなイメージ。

それがこの本ではやさしいお姉さんって感じ。
もちろんおとなも読んだら良い。

 

人間とはなんだろう。

生まれてきたとはなんだろう。

生きるとは死ぬとはなんだろう。

 

思春期のころにはよく考えたけれど、いつから考えなくなってきたのかな。

 

「他人の痛みはわからない、他人の心もわからないのはそれは小さいほうの自分からしか見ていないからだ」

小さい自分とはなにか?では大きい自分とはなにか。

大きい自分は「森羅万象すべて、深いところの自分はすべてであり、すべての事象とつながっている」

小さい自分は「それぞれが別々の人間」

だけど、小さい人間が他人の痛みや悲しみを理解できるとき、深いところでの大きい自分がその他人とつながってることを自覚することだと。

 

なんて、なんて大きなものに出くわしてしまったのかと思い、哲学とはなんぞや?に耽る頭の日々。

寝てるとき以外は働いてたって何してたって考えることはできるしね。

寝てるときも考えてるのかな?