ことばの惑星通信 

人間ってなに?ことばってなに?生きるってなに?日々考えることを綴ります。

他者の靴を履く ミクロとマクロの視点

自分が経済に関心を持つとは思わなかった。

経済にというよりは経済学というか。

ただ、この経済学は机上のものだけでは決してない。

自分の生活全般にかかわって未来を憂うるからこそ学び始めたと言える。

情けないけれど。

 

でも人間はみんなそうだと思う。

自分ごとになって初めて気が付くことであったり、真剣に考える事態になるものだ。

つまり、体験して初めて考えるというのが人間でもある。

 

ブレイディみかこさん。

「僕はイエローでホワイトでちょっとブルー」を以前に読んだ。

なにしろパンクムーブメントに影響を受けて、イギリスに行って、そして住んでしまってるのだから半端ないほんもののアナキスト

私なんてしょせんファッションでしかなかったのかもしれない。

だけど、パンクムーブメントで私に染み付いた社会への疑問の持ち方はきっと同じだと感じる、勝手に。

 

著者の息子がイギリスの学校の授業で

「エンパシーとはなにか、自分のことばで答えなさい」という問いがあり

息子は

「ほかの人の靴を履いてみること」と答えたという。

 

シンパシーとエンパシーは違うのだ。

シンパシーが思いやりとか相手に対する共感であると考えられるけれど、エンパシーは「自分と違う立場や相手の感情を自分ごととすること」と言える。

エンパシーには努力がいる。

 

他者の靴を履いてみるとはほんとによく言ったものだ。

あの間違ってほかの人の靴を履いてしまった瞬間の違和感がわかる。

そして敢えてそれを履いてみろというのだ。

 

自分と違う価値観の人とか、違う意見の人を思ってみる。

自分が理解できないような考え方にもどうしてそうなのか?と想像することに挑戦してみる。

理解しあうとは、そうそう簡単なものではない。

 

この著書では政治、哲学、心理学さまざまな分野の人々のことばを紹介しながら、「他者を理解する」ことが広い分野で必要な事、人間が生きやすい社会を創っていくことを表してくれている。

 

パンデミックの際に起こった買い占め現象についてもなるほどと思った。

著者は「サバイバル法の間違い」だというのである。

自分さえよければと買い占めた挙句、どうなるのか。

結局は自らをなんらかの形で苦しめる結果になっていく。

どうしてかは本書を読んでくださいね。

 

社会がしあわせでなくて、自分個人のしあわせなんてないということだ。

経済の根本の考えはこれだったはず。

 

「自らのミクロな行動がマクロにどういう影響を与えるのかという想像力を持って行動しないと、最終的にはミクロな不幸がダイレクトに自分に降りかかる。」

 

それは少し想像力を働かせて、ほかの人はどうなるのかを想像しさえすれば理解できることである。

経済もそれである。

他者を思う気持ち、社会全体がどうなっていくのがよいのかを考えるエンパシーが人々を救い、自らも救うのだといえる。

なんどでも読み返したい。

とても興味深い著作である。

 

 

 

 

デジタルファシズム 行き過ぎたデジタル化の行きつく未来

社会のデジタル化はほんとうに私たちにとって幸せなことなのか。
すべてが管理された社会、映画か小説の話のように思うことが
世界でも日本でも着々と進められている。
特にコロナのパンデミックによってこの動きは加速化している。
知らなかったではとんでもない後悔をすることになるのかもしれない。
たとえば、教育のデジタル化。
教科書はもういらない、pc端末がひとり一台あればいい。
先生もどんどん必要なくなる。
学校に通う必要もなくなる。
すべてはデジタルが教えてくれる、デジタルの専門家で教育者が少しいればいい。
そして、どんどん自分の頭で考えない人間を作り出していく。
言語脳科学者で東京大学大学院総合文化研究科の酒井邦嘉教授は
「デジタルはあくまでも補助、主体は紙という基本を変えるべきではありません。
結果が出ないから頭で考え、工夫して、忘れないように付箋をつける。
手間のかかるそのプロセスこそが脳にとって大切な学びだからです」と。
私たちは自分の脳を育てなければいけないのだ。
 
文部科学省が公式ウェブサイトに公開している、
人間の身体の一部をコンピューターに置き換えて究極の効率化を図る
ムーンショット目標」はほんとうに私たちが望む未来なのだろうか。
でも日本と世界とこの人類がデジタル化で管理される社会づくりは
着々と進められているのです。
すべてデジタル化が悪いといってるわけではなく
その弊害もかんがえなければいけないということ
そして人間が人間であるために大事なことが失われないこと
守らなければならないことを忘れてはいけないのです。
 
そしてデジタル化のそもそもにはなにが根本の目的としてあるのかも含めて
警戒もしなければならないのではないでしょうか。
 

精神世界3.0 私たちは何を信じ、何を捨てるべきか

面白かった!

幅広く、そして深く、そしてとても専門的な内容だったのだけど、

作家の田口ランディさんの水先案内人の文章もすごくよくてますます

二人の能力者の話がよくわかる。

読み手の私たちに、同じ精神世界のことを知らない者、見えない者として

寄り添ってくれるランディさん。

 

ふたりの能力者とは、超能力の秋山眞人氏とスピリチュアリストの江原啓之氏のこと。

ランディさんはふたりと以前からの知り合いでもある。

 

私が幼いころブームがあった。

超能力のユリゲラー氏が来日、テレビに出演し、超能力でスプーンを曲げたり、

動かない時計を動かしたりした。

私は弟とスプーンを持ってテレビの前に座っていた。

曲がらなかった。

 

あるとき両親がふたりでスナックへ飲みに行って家に帰宅、

留守番の私たちに良いものを見せてあげると言って見せてくれたのが

グニャグニャに折れ曲がったスプーンだった!

なんでも、スナックのママさんは超能力で曲げたんだとか。

そのグニャグニャぶりにこれはやらせではない、やばいと思ったものだった。

 

秋山氏はそのスプーン曲げ少年だった。

その後、UFOのことだとかでも有名になりテレビにも出演。

だけどテレビの世界は非情だ。

散々持ち上げたあと落とす。

そして世間の激しいバッシング。

 

それはスピリチュアリストの江原氏も同様。

私が江原氏を知ったのはテレビの番組、オーラの泉

あれから15年以上だろうか、私は飽きたりすることなく

江原氏のスピリチュアリズムを今も学んでいる。

 

ランディさん、秋山氏、江原氏の3人は私もまた大好きなのだ。

だからこの鼎談本は待ちに待っていた。

 

ランディさんは物理学の話から始まり、自然界のこと、哲学のこと、

社会のことに至るまでほんとに博学。

大変に勉強されているのがわかる。

哲学者カントが視霊者スウェーデンボルグと文通までしていたなんて知らなかった。

カントは視えない世界を否定なんてしていなかったのだ。

科学者が象牙の塔にあって、わからない世界を否定することに

疑問を投げかけていたのだ。

 

「インテリ諸君、そもそも形而上学だって空想のお伽話みたいなもんじゃないの。

されば読者よ理性の詭弁、たとえば科学的なんて言葉を盲目的に信じて

検証もせずに騙されるのは、霊界の話に騙されるよりも

ほんとにカッコいいことなんですかね?」

と当時の知識人たちにカントは喧嘩を売ったようなものだとランディさん。

 

このあたりのランディさんの解釈すごく好きだ。

 

「オカルト」

精神世界のことをそうもいう。

オカルトは必要なのだと秋山氏はいう。

 

オウム事件以降、こういった世界のことを話すのはタブー視されて、

なにかというと宗教だと言われたり、変な人間扱いを受ける。

だけど、実はあれ以来私たち日本人が失ってしまったものはとても大きいのでは

ないのだろうかと考える。

日本人が古代から信じていた見えない世界のこと、

それを畏れ敬う気持ちを忘れてしまったのではないのか。

一見パワースポットだの言って、信じてるようにも思うけれど、

それもまたご利益目当ての宗教ともいえる。

私の願いを叶えてくださいっていう。

 

江原氏はこういうことにすごく厳しい。

「叶えてほしいならそれにふさわしい生き方をするべき」と常々言っている。

お花畑のエセスピリチュアルブームにはとても厳しい。

 

面白いとこで言えば、

本の中で「物質も情報を発している」というのがあって、

特に「石はおしゃべりだ」と。

私は江原氏の会員サイトで買えるパワーストーンを購入して、

数か月後に届いたとき、箱の蓋を開けた瞬間4個の石たちが

「ワー!」と歓声を上げた気がしたという経験がある。

 

 

「犀の角のようにただ一人歩め」

 

精神世界を知ることは人生を豊かにすると思う。

たしかにそれを思う。

知らないでも元気に生きていけると思うけれど、精神世界を正しく知っていくことで

きっと困難を乗り越えていくこともより楽になるのではと感じるのだ。

それがなぜなのかを知ることだから。

 

精神世界の探求はやさしさの探求だと江原氏は言う。

ほんとうのやさしさは分け隔てのない心から生まれると。

能力者として生きてきた中でさまざまな想像を越える苦労をされてきたと思う。

人間不信になることもたくさんあったという。

そういった体験が山ほどあって、そこをそんなものだと乗り越えてきたからこそ、

他者の気持ちにやさしいおふたりがある。

ランディさんはそこを上手に引き出して、そして私たち読み手に問う。

さてこれからどう生きますか?と。

 

 

 

 

 

 

ウィグルジェノサイド 東トルキスタンの真実

ずいぶん前に読んだのになかなか感想を書けなかった本。

 

ウィグル人への弾圧が行われていることを知ったのはまだ半年ほど前のこと。

新疆ウィグル自治区

新疆とはなにか、自治区とはどういうことか。

ずいぶん前から不思議に思っていたけれど特に調べることもしていなかった。

ジェノサイドということばもそうだ。

テレビやネットで盛んに見るように聞くようになってからも、

私の想像は映画の中などで描かれる暴力的なイメージのみ。

そんな程度の興味しかなく(興味ともいえない)、

まったく他人事でのほほんと生きていたその時間、

私たちの隣の国では悲惨で悍ましく、悲しいできごとが繰り返されている

今もまだ。

 

この本の著者はムカイダイスさんという在日ウィグル女性。

日本の歴史や文学に興味を持ち、

今は万葉集百人一首のウィグル語訳に取り組んでいる。

 

詩、そして歌。

日本の和歌は美しいという。

 

この著書の中でムカイダイスさんは語る。

幼いころのこと。

ムカイダイスさんが暮らしたウルムチには、

14の少数民族のことばも宗教も考え方も違う人々が織りなす

不思議で魅惑的な暮らしがあったという。

特に仲の良かった親友は、モンゴル人と漢人だった。

モンゴル語と中国語とそしてウィグル語で交わされる会話。

幼い3人の話す言語は違う。

だけどことばに困ることはまったくなく、

「私たちは互いのことばを理解していた」と振り返る。

 

父がモンゴル人の友人とモンゴル語で飲みながら会話していたのも全部わかったと。

 

この幼いころのウルムチでの暮らし。

この章は冒頭にあるのだけれど、なんと美しい光景なのかと私は心引き寄せられた。

何度も読み返すほど美しい光景、美しい心情風景、美しい文章。

解説を書いた三浦小太郎氏もそのウルムチでの暮らしを「ユートピア」と表現している。

 

それが徐々に壊されていく。

幼いころ親しかったあの漢人の子は今はどうしているのか。

弾圧をする側で生きているのか。

強制収容所のこと、恐るべきことが起こっていること、

そしてそこを運よく逃れたウィグルの人たちが世界に向けて命がけで発信していること。

 

心を打ったのは、

「弾圧をするほうではなくされるほうが悪い」とムカイダイスさんや、

他のウィグルの人たちが自分たちのことを戒めていることだ。

なぜこんなことになる前に気づけなかったのか、

どうしてこんなことになるまでなにもできなかったのか。

 

泣いていてもしかたがない、恐れてばかりいてもなにも解決しない。

自分はできることをするために生き延びた。

気高いウィグルの人たちの魂に触れて心揺さぶられる。

著書の最後の章ではウィグル文学と詩人たちを紹介している。

日本語訳になってもその風景にウィグルの山々、織りなす緑、空気、

そして人々の悲しみ、生きる喜びを感じる。

 

知った者はしなければならないことがあるでしょう。

見て見ぬふりはできない。

 

 

 

 

PACHINCO 物語が与えてくれるもの

こどもながらにもことばの雰囲気は敏感に感じ取っていた。

 

朝鮮人ということば。

このことばを聞くたびになにかしら嫌なものを感じていた。

めったに口にしてはいけないようにも感じていた。

 

アメリカ人とか、フランス人とか中国人とかいうことばには感じないのに、

朝鮮人ということばにはなにかある気がしていた。

 

在日ということばも同様だ。

 

PACHINCO

このタイトルにまず気持ちが惹かれた。

著者は在米韓国人のMin Jin Leeという女性の作家。

日本にも少し住んでいたことがあるよう。

 

10年という歳月をかけてこの小説を書いたという。

 

日本と韓国。

朝鮮半島と日本。

長い歴史の中で戦争に翻弄されながら、過酷な人生を生きた女性とその夫、

そして息子たち。

 

面白いのは男性たちの名前が聖書に登場する人物であることだ。

イサク、ヨセフ、ノア、モーゼス。

あ、ひとりだけ男性だけど聖書の名前でない人もいる。

でもその理由もわかる気がする。

 

差別と貧困の中で、そしてことばも不自由な中で知恵と労力を働かせて

必死に生きていく女たちの姿に生き抜く勇気をもらう。

決してこれだけは譲れないという気高さも。

 

そこにはなに人であるとか、何語を話すとかいったこととはまったく関係なく、

なにを大切に思って生きているかだけが浮き彫りになる。

 

本は物語という形でそのことを見つけるきっかけを与えてくれるもの。

全米図書賞を受賞したというこの作品、多くの人に読まれるといいと思う。

 

 

 

 

命がけの証言 ~見て見ぬふりをする人たちへ~

作者の清水ともみさんは、2007年にテレビで放映された旅番組「中国鉄道大紀行」を観た。

カシュガルの一面の綿畑で農家の人が、なぜか暗い表情で綿を摘んでいたのが印象に残り、それから10年たってウィグルの現状を知り、あの暗さの意味がわかったという。

そしてあのシーンをもう一度見たいと動画を探したが見つけることができずにいたところ偶然再放送していたのを見たという。

そしてこれは「神様が私に描けと言ったに違いないと」思い、仕事であった漫画を通してこの問題を世に問うことをしたといいます。

 

本が話題になり、最初は顔も出して話をしていたけれど、深夜にインターホンを鳴らされるなど嫌がらせが起き、家族に迷惑がかかると顔を出すの今はされていません。

恐怖と不安があると思います。

私でさえ、SNSにウィグル関係の記事をあげたところで激しい反対意見のコメントが知人の中国人から寄せられました。

 

この記事は嘘だ!となぜ言えるのだろう、自身で調べることさえせず嘘だと言い切る気持ちがわからない。

そうせざるを得ないのかとまで思ってしまう。

そんな激しい反対や嫌がらせなどは作者にはたくさんあることと思います。

だけどそれを乗り越えてまで伝えようとされることに頭が下がります。

現に、命を踏みにじられ、苦しみと悲しみと恐怖に日々過ごしている人たちがいます。

知ったからには知らないふりはできない。

 

そして、真に友情を作りたい隣の国のことだからこそ、「良いことは良い、悪いことは悪い」と言える、ほんとに友だちだからこそ「ダメなものはダメ」と言える人間でありたいと思うのです。

 

恒常性バイアスということばがあります。

異常事態に直面していながら「自分は大丈夫だろう」「たいしたことにはならない」「きっと安全だろう」などと正常の範囲内であると考え、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したり、そこに向き合うことから逃げるといった人の特性のことをいうそうです。

 

これはとても多い現象だと思います。

たとえば、SNSなどで社会問題や政治の話をあげるといいね!の数はぐんと減ります。

食べ物の写真やなんでもない日常の些細な話題にはたくさんいいね!がつくのに。

 

人間はいつも「私には関係ない」という気持ちでいたいのでしょうか。

わずらわしいことは避けたいのでしょうか。

大丈夫、未来は今より良くなっていく、みんなが幸せになれる。

そう思いたい気持ちはわかるし、そうなるべきだと思うけれど、今現在起こっている問題に目を閉じたままでその道を作っていけるとはとても思えない。

 

在日ウィグルの人たちは今の日本を憂えています。

なぜならこんなことが起こるまえのウィグルに今の日本はとても似ているからだと。

「私たちは大丈夫」となぜ言えるのでしょうか。

今一度、自分の目で耳で心と頭でさまざまな情報を得たものを精査して、そしてこれが真実だと思ったなら行動するべきなのではないのかと思います。

 

命がけの証言

命がけの証言

 

 

 

正しいことってなに?

ほんとになにが正しいことなのかわからなくなってきた。

というと、「正しいことなんてないのよ」っていう人がいるけれど

それは物事や場合による。

今のこのコロナ禍の状況では正しいことは何かを考えなければいけない。

 

それは「だれの命も守られる」ということだ。

ウィルスについて正しい知識を持って、状況を調べて、

対策を早急に考えなければならないし、

そのために多大な痛みを生じることに応急的な対策を練らなければならない。

感染防止による被害もまたコロナ被害だ。

 

だけど、今の私の国の政府の行うことはそこから大きく外れていて、

いったい誰を守ろうとしてるのかと疑問に思うことが多い。

 

どう考えるのかは一人一人の自由だといって、外に出歩く人たち、

人に会おうとする人たち、群れたい、つながりたい人たち。

そして、「ずっとこんな状態ではストレスがたまる」と訴える人たち。

 

このコロナ禍を有事という人もある、戦争中と同じだと。

私もそう思う。

戦争中に「ストレスがたまるから飲みに行きたい」とか、

「ひさしぶりに友だちに会いたい」とか、

「やっぱり生で人に会うのがいいよね」といってられるのだろうか。

コロナにり患して苦しんでいる人たち、家族を失った人たちの前で

そんなことが言えるのだろうか。

 

今、第一線で戦っているのは医療従事者の方たち。

私たちができることは医療に迷惑をかけないことだ。

 

そして、自分の自由だと言って必要以外に出歩く人たちは、

もし感染しても医療を受けたいといわないでほしい。

検査をしてほしいといわないでほしい。

それくらいの覚悟でするべきだ。

 

批判するつもりはないけれど、

今のあまりにも緩い状況を見て(緊急事態宣言が出ても)、

いったいなにがどう正しいのかわからなくなってくる。

 

問題はこのウィルスが未知だということ。

どんどん変異しているし、第一り患しても無症状っていったい。

無症状を作って感染させていくようで、なんかの意志まで感じる。

そして果たして、無症状は無事ということなのか。

 

結論はひとつだけ、「ウィズコロナなんてない」ということだ。