私はなに?は、いろいろ変わる?
アイデンティティーってことばを自分事として考えたことがあまりなかった。
それは、たとえば海外で長く暮らす人であったり、親が国籍が違うとか、
または仕事に関係したことであったりとか。
どこか特別な状況の人たちが考えることであって、私のことととして考えたことがあったのかな。
「わたしは日本人」「わたしは女」「わたしは親」「わたしは~の一員」
この中で「わたしは~の一員」ってことほど、あやういものもないのかも。
学生であれば、~学校の生徒、企業であれば~社の社員とか。
それはいつか終われば、なくなってしまうもの。
わたしは女についても、考えられる。
女というのは外見上、生物上のくくりであって、その内面はにわからない。
こころは男ともいえる。
その人がそうだと思えばそうだ。
でも外の世界に通じるかどうかが別の話だというだけ。
となると、他の人から見たらわたしはなにかっていうのもアイデンティティーになるのかな。
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読んだ。
ぼくは著者の息子。
父はアイルランド人、母は日本人でイギリス・ロンドンに暮らす。
敬虔なカトリック小学校に通っていたけれど、なにを思ったか中学は地元の元「底辺校」と呼ばれる学校に通い始める。
私の底辺というイメージも覆される。
難民が多い街だということなので、そういったさまざまな人種のこどもたちがいるのかと思いきや、ほぼイギリス白人のこどもたちだというのだ。
むしろカトリックの学校の方はさまざまな人種のこどもたちが多いと。
この辺はイギリスの事情を知ることになるのだけど、それについてはまた。
そういう特定の人種だけがいるという場の中だと起こりやすいのが、人種差別。
私もヨーロッパに行ったとき経験した。
たいがい「中国人」と言われる。
街で知らない人たちから。
あからさまに「チャイナ!」だとか「ニイハオ!」とかいうのです。
日本にいたら考えられない。
私は一度ドイツで「ニイハオ!」と言ってきた酔っ払いたちに「チャイナじゃない、ジャパンだ!」って言ってやったことがある。
著書の中で同じことを著者もしてるのに笑った。
著者とは同じ年、パンクロックの洗礼受けてるとことかまさに同世代、同趣味。
しかし私はどうしてチャイナと言われて嫌だったのか。
これってアイデンティティってやつ?
著者の息子「ぼく」を通して見る、イギリスの事情。
イギリスの中学校、底辺中学と言ってもその授業はうらやましい。
テストの問題で、「エンパシーとは何か、自分のことばで答えよ」っていうのがある。
エンパシーというと、似たようなことばでシンパシーというのもある。
だけど、この2つは大きく違う。
シンパシーとは共感とか、同意見に思うとかそういった意味を持つことば。
つまり「自分が思うことが主体」
でもエンパシーとは、「思いやり」とか「相手がどう思うか考える」ことかと。
つまり、「相手、他者が主体」
「ぼく」はどう答えたか。
「自分でだれかの靴を履いてみること」
きっと間違って履いてしまったことがあったのでしょう。
そのときの違和感。
そして、靴を通して感じる他人のこと。
この表現はすごいなと思う。
だって、私も体験があるから、その瞬間思ったことを思い出せる。
そしてそこにシンパシーも生まれる。
エンパシーとシンパシー、両方を生み出す表現。
日本語であればどうだろう。
「共感とはなにか、自分のことばで答えよ」という問題にどう答えるだろう。
これもまた、エンパシーという英語だからはっきりと違いを感じることのできるものなのかも。
日本語だけでないことばの世界を持つのは自分の狭い世界をぐん!と広げてくれると思う。
あっ!と驚くべき世界観をたくさんの国の言語は教えてくれる。
「わたしは日本人だ!」なんてムキになってたこともなんだかねって思う。
アイデンティティー中国人になってみるのも面白いかもね。
「ぼく」は自分のアイデンティティーを考える。
国籍の違う両親をもつ自分、同じ多数の中でひとり違う自分。
チャイナとジャパン。
本の最後で「ぼく」は面白いことを言ってる。
「イエローでホワイトで、ちょっとブルーだったけど、今はブルーじゃない。ちょっとグリーン」
あ~こういう表現を私ももっともっと身につけたい~!と思うのです。