ことばの惑星通信 

人間ってなに?ことばってなに?生きるってなに?日々考えることを綴ります。

ことばの原風景を見る

Mulitilingualismとは多言語主義ということです。

多言語とは、「さまざまな国の言語」。

多言語主義というのは、自分の国の母国語だけでなく、

さまざまな国のことばに耳を傾け、可能であればそれを口にできること、

その国のことばで考え、その国のことばを尊重すること、

つまり「何語でも」知っていくということが多言語主義で生きるということだと思っている。

 

その国のことを知り、その国のことばに触れることでもいい。

知らなかったことばを知る、知らなかった世界を知る。

それは自分自身がことばを通して世界に開かれていくことでもある。

 

たとえば、英語さえ話せれば世界中の人と通じ合える。

などと思うと思うけれど、実際どうだろうか。

英語が話せるのは便利だけれど、

私はよく英語圏ではない人と英語で話すときに、

どこか互いの間にオブラートのようなものがあって、

通じ合っていてもほんとにはどうなんだろうかと思うことがある。

たとえば、韓国の人と英語で話せるのと韓国語、

または日本語など互いのことばを互いに話せたらきっと

英語だけでは分かり合えなかった部分がわかることがあるのではないかと

思うときがある。

 

たとえば私は中部の出身で関西に住んで長くなるけれど、

最初のうちは関西弁に違和感があって、相手もまた私の話す日本語になにかしら

打ち解けるのに壁を感じるものもあったようで、

馴染むのには時間がかかった。

何年もしてるうちに私も関西弁を話すようになったけれど、

もちろん生活が慣れ、友だちもできてという変化はあるけれど、

関西弁に慣れ、自分も話すようになったということは大きいと思う。

 

関西弁を聞いてるとよく思う。

関西の人らしいなと。

私の生まれ育った中部の地域とはやはり人がどこか違う。

そこに暮らす人々の文化とか、生活習慣とか、食べるものとか、人間の癖とかいろいろ。

 

世界のことばも同じかと。

ことばにはその国のことばが持つ原風景がある気がする。

まったく知らない国の言語でもなんとなく聞いていたらその原風景を感じる気がする。

 

人間は土地に生まれ、土地に暮らす。

ずっとずっと昔から。

そこで育まれたその土地のことばは、そこで暮らす人々の歴史や感情や叡智を宿す。

そう思うことがある。

 

多言語主義とは、そのことばの原風景を眺め、原風景を通して人間を見つめ

その原風景を自分の中に取り込みながら、変化していく「私」を育む生き方だと思うのです。

そこには必ず人間が、、私を含みながら、私以外の人たちがあります。