ことばの惑星通信 

人間ってなに?ことばってなに?生きるってなに?日々考えることを綴ります。

邪気は首から

ほんとに大変なことになってきた。

コロナウィルスの感染拡大のため、

医療を受けることが困難にどんどんなっていく。

風邪さえひけない。

自分の身体を自分で守らないことには、

医療従事者の人たちにこれ以上の負担はかけられない。

 

無駄に出歩いたりしないとか、あちこちで消毒があれば必ずするとか、

帰ったら手洗い消毒うがいなどが習慣になってきてるからか、

この冬はインフルエンザもとても少ないようだ。

風邪はひかない、インフルにもならない、決めた。

 

風邪は風の邪と書く。

風が運んでくる邪気かな。

 

そして邪気は首から入ってくると聞いたことがある。

だいたい、風邪やインフルエンザの引き初めには首の後ろあたりから背中にかけて悪寒がしたりして、

そのうち体調が悪くなり熱が出て・・・ってパターン。

あの悪寒ってほんとなんとも気持ちが悪い。

 

首周りを温かく。

ストール巻いたり、タートルネックを着たりして。

若いころは冬でも首周りの空いた服着てて、風邪をひく!ってよく親に怒られた。

どうして冷やしたくらいで風邪ひくんよ、ウィルスなんだから関係ないでしょって思っていた。

 

何年か前、家にいて妙に首周りと肩が気持ち悪かった時があった。

悪寒というのかそれよりも手前でなんだか首肩がだるくてとにかく気持ちが悪かった。

ふと、親の言っていたことを思い出し、

そのとき首周りの空いた服を着ていたので、

家の中でもマフラーをして過ごしてみた。

お風呂にも首まで浸かって温まって、早々と布団に入って寝ることにした。

 

寝入ってすぐだったと思う。

 

私の首の後ろあたりがガクンと落ちるというか、

なにかが首の後ろから出て行ったようなそんな感じがした。

 

まさか。

 

でもそのときほんと、首の後ろからなにかが出て行ったと思ったのだ。

 

そのあと、あれほどだるくて気持ちの悪かった首周りがスッキリした。

嘘みたいに。

 

今日たまたまネットを見ていたら、

「邪気(ウィルス)が首に入ったことがわかった」をいう話を知った。

この人は首に入ったのがわかったという。

私は首から出て行ったのがわかったのだ。

 

前にこのことを人に話したら信じてもらえず笑われたので、

それ以来この話は封印。

でも、間違ってない!私は夢を見たんじゃない!

 

みなさん、邪気は首から入ります。

しっかり首周りを温めて、

風邪もウィルスも寄せ付けない健康な暮らしをしたいですね!

 

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言葉を使う動物たち ことばは人間だけのもの?

動物と話せたら楽しいかな。

私はすごく話したいと思うのは、我が家のワンコ。

特に、ワンコが病気の時。

どこが痛いの?どんなふうにしんどいの?って言ってほしいと何度思ったか。

 

ことばの定義とはなに?

意志の伝達手段、コミュニケーションの手段。

実質は音を用いた記号体系などなど調べたら出てくる。

 

そして、人間以外のある種の動物の「言語」をうんぬんすることも可能ではあるが、その表現能力と、内部構造の複雑さおよびそれとうらはらの高度な体系性などの点で、人間の言語は動物のそれに対して質的な違いを有している(世界大百科事典より)

 

つまり、ことばとは人間だけが使うものだということ。

ことばとは人間だけが持つ能力とも考えられる。

 

私もずっとそう思ってきた。

でもこの本を読んで、「ことばとはなに?」という根本的なところをひっくり返された気になった。

著者はエヴァ・メイヤー 哲学者で作家でそしてシンガーソングライターだという。

 

動物はことばを話せないと結論付けることは、「ことばというものがそもそも人間側にあって、その人間の話すことばを動物は話せない」ということでもある。

動物のもつ能力は常に本能的なものであって、未来や過去を語ったりしないからだとも。

人間のように。

 

本書のなかに、「韓国で生まれ育ち、人間の中で生きてきた象が語る低周波の音を韓国人が聞いたら理解できる」というエピソードがある。

象は低周波音で仲間同士会話をするそうだ。

でもこの韓国で育った象は仲間がいない、動物園で唯一の象だったから。

周りにいるのは人間、韓国の人たち。

「科学者はこの象が人間と親密な絆を結ぶために人々が話すのをまねし始めたのだと考えている。」

これって、まるで私たち人間が生まれて赤ちゃんのときに、周りのお母さんや家族の話すことばを話せるようになっていくのと同じ!

 

私の中で「いったい、そもそもことばってなに?」って疑問が沸き起こる。

 

また野生のオオカミが人とかかわるようになり、そして一緒に生きる犬となったとき、犬は人間の振る舞いを見ながら、人間との絆を作るために人間を観察し、ともに生きる知恵を身に着けていく。

人間は犬を飼育し訓練しているように思うけれど、彼らにしてみればこっちから寄り添ってやっているんだってものではないのか。

 

猫が人間にニャアって鳴く話も面白い。

おとなの猫は猫同士互いに鳴くことはなく、人間に対して鳴くのは猫が人間との相互作用で習得したスキルだという。

 

また、森で保護されたゴリラの子に手話を教えたら、「自分の親は密猟者に殺された」と語ったという。

過去を語っている、自分に起こった悲しい出来事を伝えている。

 

そして、動物たちの死の概念。

ここはひっくり返るとほんとに私たちはなんと長いあいだ動物たちにひどいことをしてきたのかと心から謝罪したくなるだろう。

 

動物たちは死を知っている。

そして仲間を弔う動物たちまでいる。

この行動の意味を私たちはまだまだ理解できていないという。

だから彼らが死を理解していないなどと断じるのは時期尚早だということだと。

 

人間の側から見た動物ではなく、動物の側に人間ができるだけ近づいて理解しようとする試みがこれからもっと必要になってくるでしょう。

そうするといろんな概念がひっくり返ることになる。

社会の在り方も、政治も、環境問題も、食の問題も、そしてなによりもまず「いのち」とはなにかについても。

動物たちのことばについて考えていくと、どうしても「ことば=生命」とつながるのだ。

このさき、

いろんなことがベールを剥がされるようにわかっていくのでは。

 

 

言葉を使う動物たち

言葉を使う動物たち

 

 

 

なぜだかセンチメンタル ~音が思い出させる~

ネットの音楽配信をたまに聴く。

80年代の洋楽が好きなのでそれを中心に。

若い時に聴いた、好きだった音楽は歳を重ねると一時的に飽きてたりするときも

あるけれど、たまに聴いてみると思いがけない世界に運んでくれる。

 

思い出すのです。

あの頃の自分。

悩んでた時の、傷ついたときの、ドキドキしたときの

そのときの感情が蘇る。

そのまんまってくらい、見事に当時の自分に戻ってしまうように。

そしてそれが何度聴いても同じことが起こる。

この感覚は。今この年齢ではない。

あの若かったころのあのときの心のまま。

あのときの自分に戻るような。

 

音って不思議。

こういうことはきっと誰にでもあることと思う。

音とか匂いとかもそうかな。

 

匂いには成分がある。

その成分はたとえばほかの成分と混ざったとしても、

たしかに私たちの鼻はそれをかぎ分ける。

そうするとまたなにかしらの思い出がよみがえる。

 

音にも成分があるのかな。

 

ところでセンチメンタル。

もうすでに死語?

っていう、死語も死語?

 

#音楽 #洋楽 #80年代 #センチメンタル

 

温又柔さんは日本で育ち住んでいる台湾人の作家。

この方の著作を読むのは2冊目。

この著作はエッセイ。

自身の体験に基づいてそのとき思ったこと、今考えることがつづられている。

 

母語と母国語は違う。

温さんは日本に2歳から住んでいる、温さんの周りで話されている言語は日本語が主だ。

だから温さんは日本語を話す。

だけど、人に「台湾人です」と伝えると、「だったら中国語話せる?」とか「台湾語話せますか」と言われてしまう。

それが子どものころから。

温さんがこどものとき、久しぶりに会った母の日本人の友人と母が屈託なく話しているときのこと。

母は日本語が話せるようになるのに時間がかかったようだけれど、このときの母は友人とほんとに流ちょうに日本語で会話をしていて、温さんはうれしくなる。

友人が「又柔ちゃんは中国語話せないの?」と聞く。

あんまり話せないと答えると、「台湾人なのにもったいない」という。

日本に住む外国人の方たちには自分の国の母国語を子どもたちに残すために、家の中では日本語禁止!としていて、そのために母国語も上手に話す人たちがあるという。

温さんのご両親は台湾人、だけど、日本にいるから日本語を話せるようになるのが大事とそこまで厳しく母国語を残そうとはしていなかった。

 

明るく笑いながら「私、失敗しちゃったね」っていう温さんのおかあさんの話が切ない。

 

この著作の中には温さんが台湾に里帰りしたりしたときにたくさん中国語や台湾語が聞こえてきてうれしくなるって話がある。

「自分の子どものころに聞いた両親や親せきの話す台湾語、中国語を思い出してとても親近感を感じる」のだそうだ。

 

私は、多言語の活動をしてる。

家ではさまざまな言語が流れる。

そうすると起きてくることが温さんの言う「聞こえてきた音に風景が重なる」体験と同じことがある。

母語と母国語の違いは明白。

人は環境の中でことばを話せるようになっていく。

だからその環境が日本語なら母語は日本語でいい、中国なら中国語でいい。

もし国が変わればそれもなくなる。

ヨーロッパなんてそのいい例だ。

 

多言語の環境で暮らして話せるようになっていく私にとってはそのすべてが私の母語だ。

 

 

「国語」から旅立って (よりみちパン! セ)

「国語」から旅立って (よりみちパン! セ)

  • 作者:温又柔
  • 発売日: 2019/05/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

#台湾 #日本語 #台湾語 #中国語 #母語 #母国語 #多言語 

 

 

イエスの生涯

作家のブレイディみかこ氏が、
遠藤周作作品の中で最も美しいと言っていた
エスキリスト3部作の中の1冊。
私は好きな人が好き!と言ってる作品に興味がある。

だいたい感性が合うし。

 

イエスの生涯 (新潮文庫)

イエスの生涯 (新潮文庫)

 

 
キリスト教信仰がなくても、史実などから
たぶん誰もが疑問に思うことがある。
なぜイエスはあれほどの悲惨で惨めな死を遂げなければならなかったのか。
なぜイエスを裏切った弟子たちが、イエスの死後、自らの命を厭わない信仰の実践をするようになったのか。


遠藤周作氏の解釈と理解はある意味劇的で、
深く考えさせられるものだった。
それは今の時代にも尚ぴったりと寄り添っていくものだと思う。
遠藤周作氏の美しい文章は静謐である。

 

 

ことばで世界が交わりあう 真ん中の子どもたちを読んで

作家には海外で暮らす経験を持つ人が多いとなにかの記事で読んだ。

たしかに私の好きな作家に限ってもそういう体験を持つ人は多い。

 

古くは夏目漱石森鴎外

漱石はロンドンに留学してる最中に鬱になったとか。

ことばの問題、文化の違い、さまざまな違いを受け入れて生活するのはたとえ天才でも大変な苦労だったのでしょう。

それに、霧のロンドンともいわれる天候が彼の精神を病ませてしまったのかもしれない。

 

ことば。

アメリカ在住でインド人作家のジュンパ ラヒリは夫ともにイタリアで暮らし、

話せるようになったイタリア語で小説を書くことに挑戦もしている。

母語ベンガル語と英語のはざまで長く苦しんできたラヒリはイタリア語を通して

なにかしらあらたなことに挑戦したいものをみつけたのかもしれない。

また、ドイツ在住の作家多和田葉子氏はドイツ語の世界の中に作家の好奇心をくすぐる

ものを見つけてそれを小説やエッセイに書いている。

読む私たちも、ドイツ語の摩訶不思議?な世界を多和田氏のことばから楽しませてもらうのだ。

 

まあ、ドイツ側からすれば日本語も摩訶不思議な世界を持つのでしょう。

昔うちにホームステイしたドイツ人が、日本語が話せるようになる過程で

日本語って変!ってという驚きを発見していた。

 

ことばの持つ世界観は自分で見つけるからこそ面白い。

こうなんだよ~と人に教えてもらったものはなぜかあまり心に入ってこない。

 

でも、人が「感動」をもって伝えてくるその経験には心動かされる。

なんだろうこの違いは。

 

温又柔さん。

若い作家さんで最近知った。

台湾で生まれ、3歳から日本で育つ、両親は台湾人。

3歳までは台湾で、そのあとはずっと日本。

となるときっと一番話せることばは日本語かな。

 

台湾語と中国語と日本語。

そのはざまの中で右往左往する自分をモデルに小説を描く。

 

真ん中の子どもたち

真ん中の子どもたち

  • 作者:温 又柔
  • 発売日: 2017/07/26
  • メディア: 単行本
 

 

 日本語の中に中国語、台湾語が混じるという文章で書かれている。

芥川賞候補になった際、その選考委員の中にこれが理解できなかったのかひどい評価をしている有名作家がいた。

Mさん、好きな作家だっただけに私もショック。

 

でも、まあきっと彼にはわからないのでしょう。

 

私は多言語の環境で生きてる。

なんていうと大げさだけど、その環境を人工的に作って、たとえば温さんのようにことばを自然に習得していくことをしてみたらどんなだろうという活動をしてる。

 

だから、日本語話しながら突然スペイン語が出てきたり、なんてことも別に違和感がない。

なので、温さんの日本語、台湾語、中国語がまざって表現されるってことには違和感がない。

でも、文字だとどうなのだろうという興味があった。

だから読んでみた。

 

中国語も台湾語も私のなかにすでにあるらしい音やフレーズがその文字に反応してくれるのですごくわかる。

わからないのもあるけれど、でも見当つけれればわかる。

こどもが母語で文字に出会って読めていく感動ってこんな感じかな。

 

芥川賞選考委員の江國香織さんは「主人公のお母さんが台湾語を話すのがカタカナになってるのって面白かった」と言われたそうだけど、ちょっとこのことばに江國さんっていい感覚持ってるって感心した。

 

親の話す中国語を話さなければならない、と思った主人公のミーミーは上海に留学。

ほんとに苦労して勉強する。

厳しい先生には理解してもらえず、一番できない生徒といわれる。

 

でも出会った留学仲間に、

「どうして親のことばだからといってあなたが話さないといけないと思うの?」といわれる。

別に話せなくたっていいのではないの?って。

 

そしてさまざまな「どうして」がミーミーの前に現れてくる。

いつのまにか自分自身で作っていた「ねばならない」に縛られて、それに一喜一憂して自分を苦しめてもいたことに気づく。

 

だけど、でも、私は中国語を話せるようになりたいとミーミーは思う。

それは~~だから。(これは読んでね)

 

実体験したものでなければわからないこともある。

だから理解できなかった選考委員の有名作家はこの小説を批判した。

だれにでもわかることではないと。

 

でも、体験した人が語ることばには体験した心が宿ってる。

勉強で教えてもらったものは、その心が宿るのにとても時間がかかるか素通りしてしまうのだろうけれど、体験者の心の宿った物語には私たちの想像力という心を動かす力が宿る。

だから、ほんとはわからないことなどひとつもないはずなのだ。

 

それは、本を読むっていうことすべてにいえることなのではないのか。

 

日本語、中国語、台湾語の世界。

同じアジアで歴史を共有する私たちのことば。

私もそこにいる一員。

ことばを通じて世界が交わりあうそんな未来が描けていくといい。

 

子どもたちの階級闘争 ブロークンブリテンの無料託児所から

 

ブレイディみかこ氏の著作、ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルーを読んでこの作家を知った。

 

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
 

私は気にいったらその作家の過去の著作とか読み続ける。

この著作はその関連で読んだ。

 

ブレイディ氏は私と1歳違いの年齢。

しかも、イギリスを発端としたパンクロックウェイブの洗礼を受けてて、そこも私と同じ!でこういうのも勝手にうれしい。

そしてなによりうれしいのはそのアナキズム精神は少しも衰えていないところだ。

 

私は実は忘れてた。

パンクとかアナキストなんてもんは若いうちだけのことと悟っていた。

いい歳をしてなんて気になっていた。

でも、ブレイディ氏の著作を読みながら、「ほんとの自分でありたい」と痛切に感じたのだ。

懐かしいセックス ピストルズ

彼らの曲をブレイディ氏は腹が立った時に今でもよく聞くのだそうだ。

私も好きだったな~

 


Sex Pistols - God Save The Queen

 

自分を偽って生きたくない、まわりから人が去っていこうと私は私の思うことを言い、思うことをする。

だって、明日死ぬかもしれないやん。

遅咲きのアナキストだ。

(いやいやずっとそうだったよって意見も影で)

 

パンクロックが生まれたのも、イギリスの階級社会への鬱憤がたまった若者たちからである。

労働者階級にはチャンスがない。

出世したいなら、サッカー選手かロックミュージシャンを目指せとは私が知ってる時代に聞いていた話だ。

 

ブレイディ氏の著作を読むと、今はまた様変わりがして、実はイギリスで大変に貧しいのは白人であり、移民たちが保護政策を受けて実はイギリス社会は逆転現象が起きているというのだ。

しかも、その親の中にはアルコール、ドラッグ依存というものも多く、そこでの子育てはどれほど悲惨なものか、また育てられないと判断されたこどもたちは親から取り上げられ、里親が育てるというシステムがある。

 

わたしは、ダニエル・ブレイク (字幕版)

わたしは、ダニエル・ブレイク (字幕版)

  • 発売日: 2017/09/06
  • メディア: Prime Video
 

「私はダニエル ブレイク」という映画を観たとき、若い母親がこどもたちを連れていった先のフードバンクで棚に並べられたビーンズの缶詰を手に取り、蓋を開けて手を突っ込みその場で食べてしまうという場面があったけれど、それは大げさでなく事実だと。

フードバンクでじゃがいもを手に取り泣き出してしまう親もあるという。

 

食べられない、アルコール、ドラッグの依存地獄から抜け出せない、そして仕事がない。

 

ブレイディ氏は「無料託児所」で保育士をする。

そこから見た現実の風景。

保育所から経済が見える」

「地べたから見た経済」

社会を知りたければ、金の流れを見ろということばを聞いたことがあるが、国民を救うはずの政策はことごとく一番貧しい者たち、弱者を苦しめていく流れになっていくだけだった。

これは他人事か。

 

底辺を見よと、出会った子どもたち、親たち、そしてそこで働く同僚たちとのエピソードで私たちに大切なことを伝えてくれる。

 

悲惨かもしれない。

でもその中で起こるできごとには人間のまだまだ救われる美しさがある。

社会はクソかもしれない、人生も同じかもしれない。

だけど、その中から「ただでは転ばない」スピリットを私たちはともに生きる中から見つけていけるのだと思う。

 

日本だって他人事ではない。

このコロナの影響で多くの経済破綻が出ることが予想されている。

コロナ前、コロナ後。

これからの時代をどう生きていくのか考える必読の書だと思う。