ことばの惑星通信 

人間ってなに?ことばってなに?生きるってなに?日々考えることを綴ります。

食べない生活 朝ごはん編

ここのところ朝ごはんを食べない。

正確には、まったくおなかに入れないのではなくて、私が朝取っているのは

豆乳と甘酒を混ぜて温めたもの一杯。

ときどき、豆乳ヨーグルトに麻の実ナッツと蜂蜜混ぜて食べたりそれだけ。

前の日の晩の食事によってはなにも食べない時もある。

 

昔から朝起きた瞬間からおなかが空いていて、朝からガツンと食べるたちだったけど

ここのところ朝にあんまり食べるとお昼におなか減らない事態になっている。

満腹感が腸の働きが悪くなる、からだに悲鳴をあげさせてるのではと思うほど。

 

夕飯を取りすぎても朝おなかが空かない。

昔はそんなことなかった。

どんなに食べてても、朝起きたときからおなかが鳴るくらいだった。

年齢のせいかな、だったらちょっと食生活は考えた方がいいのかもと思い始めてた。

 

「朝ごはんは実は食べなくても問題ない」

「夕食を食べてから次の日のお昼まで16時間なにも取らないのがいい」

とかの説を知る。

この実は~の話に目からうろこになった。

 

朝ごはん取らないと脳に悪いとか、からだによくない、しっかり朝から食べなさいと

育ったのでほんとに「実は~食べなくても~」の話にやられる。

とはいえ、食べたっていいし、食べ盛りの子とか、状況によってはもちろん必要。

私も食べるときもある、いろいろ。

無理はしない、ダイエットじゃないし。

 

でも、私は朝豆乳甘酒一杯でもお昼までもつ!ってことに我ながらびっくり。

もちろん小腹が減る感じはあるけど、でも食べないとダメだ~ってほどにはならない。

動いていたり、なにかしてると空腹を忘れてしまってるくらい。

 

そして、なにより「からだが軽い!」調子が良い。

お通じは普通に、私は昔から毎朝ある。

朝ごはん抜いてもある。

 

今までどれほど腸を酷使してきたのか、

私は私の腸に対してブラック企業だったのではないか。

 

腸活とかいって、なにを食べるかってことが言われるようになったけど、この

「食べない」っていうのもとても必要なことなのでは(しかしよく考えて実践)

ダイエットのためではなく、ただ自分のからだのため。

 

だけど、この「実は~なんですよ」ってこと、世の中たくさんある。

知らないで生きてくこともできるけど、でも知った方がいいかもって話、

それも少しずつ書いてみる。

 

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人恋しさは

なにしろずっと引きこもり生活みたいなもので

出て歩くというのはスーパーに行くのと、犬の散歩だけ。

電車にも長らく乗ってなくて、かっこいい春のコートを新調したのに

結局この春は着なくて終わりそうだ。

 

人としゃべってるかっていうと、家族とはよく話す。

ま、割と普段から話してる方。

犬は私が家にいるのが長いのでうれしそう。

今日なんて暇を持て余して3度も犬と散歩に行った。

どうしたの?どうしたの?って顔をしてるようで可笑しい。

 

本をよく読めるようになったのがうれしい。

 

とはいえ、いつも会ってた人たちに会えてないし、たしかに依然と比べたら

人と話してないかも。

では、人恋しいかっていえばそうでもない。

 

話してないことない。

犬の散歩で出会った人と話す。

短い会話だけど。

いつも会うチワワのまめくんとその飼い主のおじさんとか、うちの犬がライバル視

してるでっかいワンコとか。

14歳になるというチワワを抱っこしてるおばちゃんは、「チワワって歳をとっても

赤ちゃんなのよ」って嬉しそうに言ってたり、突然「犬に触っても良いですか?」って

聞いてきた若い女性は最近愛犬を亡くしたばかりだという。

 

それに駅前でビッグイシューを売ってるおじさんにもがんばって話しかけたし、

生では会えないけど、いつも会う仲間とは電話とかネットで会話する。

 

できないことは今は多いけど、そのぶんいつもできないことをやってみたりする。

自分で自分のお守くらいできる。

 

さびしくはない、人間はみんなひとり。

生まれてくるときも死んでいくときもひとり。

離れて暮らす80歳を越える父なんてまったく逞しい。

不自由なからだではあるけれど、自分の楽しみ見つけて、人助けまでして生きてる。

ま、たまに世話もかかるけど、でも立派と思う。

 

あたりまえにあったものがなくなって、できてたことができなくなって初めて知る。

もっともっとシンプルにしあわせを求めて生きられると。

 

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なぜかうちにあったジャンべ。

鼓みたいに叩いてみた。

違ってた。

 

 

 

 

 

 

Big issue と出会う

昔、自分もホームレスになるかもしれないと考えたことがあって

それがとても恐ろしい想像で、なんだか急に悲しくなって

でもなるかもしれないという不安に襲われていたことがあった。

今でもそれは時折頭を過る。

あの駅の隅で寝ているのがいつか自分かもしれないとか。

明日、そして10年後、もっと先どうなってるのかなんて誰にもわからない。

それは心配しすぎという人もあるけど、先のことはわからない、

そう思っておくほうが健全な気もする。

 

Big issueという雑誌を知った。

twitterでこの販売員の方がツィートしてたものを読んだ。

物乞いをしていた、恵んでもらったお金にお礼のことばを言うけれど

恥ずかしくて顔をあげることができなかったと。

あるとき、ある人にこのBig issueという雑誌があることを教えてもらう。

この雑誌を販売、その中の一部は販売者の収入になると。

そこでがんばって自立を目指す人たちがあるということを。

 

ボブという名の猫 幸せのハイタッチ

この映画でBig issueを知った人も多いそうだ、私はまだ観てないから観る!

 

そういえば、駅前で割と年配の男性が雑誌を掲げて売っているのを知ってる。

何度も通りがかったときにどんな雑誌なんだろうと思ってはいたけれど

売ってる男性がちょっと怖くて近づけなかった。

その雑誌がやばかったらどうすると思って。

エロ本とか。

でもふと見た雑誌の表紙はロックバンドのクィーンだったり、ハリウッド俳優だったり

して、ますます、ん?なんの雑誌?っていう興味を持ってた。

だからtwitterで読んで初めて、そうだったのか!それは興味ある!って思った。

 

 

そして駅前で見つけた、販売員の方。

雑誌を掲げているけれど、声出してお知らせしてたりしないので

やっぱりちょっと近づきがたい。

一度前を通ってからふと思い立ったように近づいてみた。

そして、「Big issueですか?」と聞いてみる。

その人はちょっと驚いたような感じだったけど、はいと答えてくれたので

「1冊ください」と購入。

350円。

100円玉3つと50円玉1つ。

おじさんの手に広げる。

その銀色がなぜか今も私の目に焼き付いてる。

 

雑誌の内容はとても面白い。

中でもこの雑誌で10年以上ぶりに再会した作家がいた!

タイの漫画家のウィスット・ポンニミットさん。

可愛らしい女の子の絵が印象的。

マムアンちゃんという漫画を連載されてるようだ。

タイ語も書いてる。

いろんな出会いがあるけれど、雑誌やネットを通してもアンテナ広げていれば

新しい世界がどんどん開かれていく。

私が望めば。

 

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罪滅ぼし

新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、あらゆることが自粛で、

引きこもり生活を余儀なくされている、というより楽しんでる。

とにかく前代未聞の事態が世界を襲っているわけで、まして日々深刻になっていく

世界の現状を見ていると自分が住んでるこの国も、地域ものんびりしてたらいけないと

思うのです。

このウィルスに対する正しい知識を持てば恐れず、何をするべきか、

なにをしてはいけないのかの判断ができると。

今まだワクチンがない、つまり治療法がない、そして若い人たちはどうも感染しても

軽そうだ、症状さえない人もいる、だけど高齢者や持病を持つ人たちにとっては

いのちの危険に関わること。

 

となると、その方たちのまわりの人たちだって移してはいけない。

見えないだけに、「私や私のまわりは大丈夫だし、テレビが騒いでるだけよ」って

思う人も多いのだと思う、テレビでは東京の公園の花見にたくさんの人がいる。

 

こういうときに試されるのが、創造力と他人を思いやる心でしょう。

これは概念的なものじゃない。

創造力と思いやりには知識と努力がいる。

 

本を読んでる。

めちゃ引きこもり生活。

これはこれで楽しい。

人に会えなくてさびしい!ってことは私の場合あまりない。

冷たい人間かも。

 

しっぽの声 (6) (ビッグコミックス)

しっぽの声 (6) (ビッグコミックス)

  • 発売日: 2020/02/28
  • メディア: コミック
 

 

動物虐待、ペットの遺棄、野生動物保護などなど、特にSNSを始めてから問題意識を

持つようになった。

知らされる事実、現実はほんとに厳しい。

人間はどれほど愚かで残酷かと考える。

私にできる範囲でとわずかな額の寄付をしたり、SNSを使ってシェアしたりなどして

る。

ほんとは保護活動に加わったり、里親になることも考えるけれど、今のうちの現状では

無理だ。

 

幼い頃から犬がそばにいた。

犬だけでなく、インコやリス、うさぎ、ハムスターも飼っていた。

 

私に飼われたペットたちは不幸だったかもしれない。

こどものことだ、飼育が下手で、また飼育をさぼっていて死なせてしまった子たちもあ

る。

なかでも一匹の犬。

スピッツだった。

ハッピーって名前。

 

家がある理由で突然引っ越しをしなければならなくなった。

引っ越し先ではほんらい犬は飼えない。

でも、秘密で飼ってる人もいるみたいで、両親は「1匹だけにしよう」と私に言った。

当時出産したばかりの2匹の親子がいた。

 

私は子犬を選んだ。

 

母犬のほうは親戚の農家に引き取られた。

なんどか両親は「ハッピーに会いにいこう」と私を誘った。

でもそこは遠くて、友だちと遊びたい私は行かなかった。

そうしてるうちまもなくハッピーは農薬を食べて死んだと聞いた。

 

「会いに行ったらほんとに喜んでいたよ、おまえに一番会いたかったんだよ、

かわいそうなことをした」と母に聞かされた。

私は応えなかった、選べと言った両親が悪いと思っていた。

 

しっぽの声を聴く。

「だからこれからできることをして」とその声は言ってる。

この本を読んでたくさんの知識を得る。

間違った思い込みもあることを知る。

 

私の罪滅ぼしは終わらない。

 

 

プルーフオブヘブン 彼方と此方、宇宙は今ここにあるということ

あなたは死後の世界を信じますか?
というと、なんだか怪しいなにかのお誘いみたいに警戒してしまうけれど、でも考えたらこれほどわからないことはなく、またこれほど知りたいと欲することもなく、またこれほど科学が否定するものもない。


科学者という人ほど、死後の魂の存在やその世界を否定する。


その第一線の脳神経外科医という方もその通りの方だった。

その人が体験した魂の存在を確信した体験手記。

 


私の友人は20歳のときに母親を病気で亡くした。
仲良しの母娘だっただけになおさら心痛んだ。
その友人が何年か経ってから青森の恐山に行ったと聞いた。
たったひとりでそんなところへと、聞かされた私はとても彼女をかわいそうに思ったものだった。
それほど思い詰めていたのかと。

話を聞いてみると、イタコの女性はこちらのことは何も知らないはずなのに

家族構成やらさまざまなプライベートなことを言い当てていた。

しかも友人は握ったイタコの手に母を感じたと語る。

そして、びっくりしたのは、「おかあさん、今なにをしているの?」と尋ねると

イタコを通じて亡くなった母は

「こちらで勉強することがたくさんあって忙しいの」と答えたのだと。

 

勉強する?

忙しい?

あの世で?

私はわけがわからなくなってそのとき彼女になんと言ったのか覚えていない。

 

こちらの著作を読んでも驚くことがたくさんある。

大概、臨死体験などというと、「脳の幻覚作用で見たもの」とか意識を取り戻してからの思い込みであるとか言われがちなもの。

だけど、いくら脳科学が進歩してきたとはいえ、まだまだわからないことばかり。

そこに持ってきてこういった神秘体験、それにどう対処したらわからないのも科学者といえどもお手上げなのでしょう。

さらに、なにをバカなことをと言いたい気持ちもわかる。

 

臨死体験と言えば、

死後、懐かしい人たちに再会し、自分をあちらの世界に導いてくれるのは大概先に逝った親族というのもよく聞く話。

 

でもアレグザンダー博士のは一つ違う。

自分を導いてくれたのは見知らぬ美しい女性、女神のようだったと。

その理由は最後にあっという展開で知らされる。

 

面白かったのは、あちらの世界でまさに「私は科学するを体験していた」というのです。

それは、意識が体験したこと。

からだを持たない「意識が経験する」という表現にも驚かされる。

 

「私が行ったその場所では、見ることは知ることに直結していた。体験することと理解することの間には区別がなかった」

 

後半がとても感動的になっていく。

あらゆる世界観を巻き込んでどんどん広大無辺になっていく。

死後の世界と信仰と、そして科学。

特に物理学。

量子力学という奇妙な物理学と私たちの魂の存在は切り離しては考えられないと。

 

「この宇宙を深く理解するためには、意識を現実を描き出す役を演じていることをまず認める必要がある。量子力学の実験に示された結果、その分野の一線の研究者を唖然とさせるものだった。そして彼らの多く(ハイゼンベルグ、パウリ、ボーア、シュレディンガージーンズ卿他多数)は、神秘的世界観に答えを求める方向に視点を転じた。観測者と観測対象とは切り離せない関係にあることがわかったからである。

私があちら側の世界で気づかされたのは、この宇宙の言葉に尽くせない広大無辺さと複雑さだった。そこでは存在するものすべての根本が意識であることも知った。」

 

「意識を用いない限り、宇宙という実在の核心には迫ることができない」

その宇宙は何億光年先にあるものではなく、今まさに自分がいる今ここにあるとも。

 

話はどんどん複雑さを帯びていくけれど、反面、とても想像しやすくなっていっていく気もする。

想像しやすくなるというのは、人によってはその体験をどこかでしているからと考えるからだ。

魂の存在を肯定するか否定するかによっても変わってくると思う。

 

わからないことだらけだ。

だけど、みんないずれ死ぬから必ずわかることでもある。

だけど、今ここで知りたいことも増えていきたいと思う。

知りたい。それだけだ。

 

あのとき、

私は友人の亡くなった母親が言ったという、「こちらでは勉強することがたくさんあって」ということばに、それがほんとなら少し死んでからの楽しみを感じたりしたものだ。

それは言えなかったけれど。

 

この著作を読んで思い出したのはこれらの映画。

ずいぶん前に観たのだけれど、またぜひ観たいと思う。

 

 

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わたしは何者であるかというヴィジョン

森田真生さんのゼミに参加。

森田さんは独立研究者を名乗る数学者。

著作も何冊か出されてる。

大学などに所属せず、研究活動を行う傍ら、

全国各地で「数学の演奏会」や「大人のための数学講座」といったイベントを行っている。

 

著作を何冊か読んだり、ネットの記事も読んだりしていて

いつか森田さんのゼミに参加できたらいいなと思っていた。

集まった受講生は30人くらいだったでしょうか。

森田さんは30代で、お子さんもある。

若々しい装いもあってか学生さんのようにも見えた。

 

ここに書くのは森田さんがゼミで話されたことを正確にあらわすことはできないので、それよりも私自身が受けた印象や思ったことが中心になる。

 

「統合的に、私たちは何者なのかのヴィジョンを描く」

私のメモにはまず最初にそれがあって、一番最初に話されたことばなのだろうと思う。

私は何者であるのか。

それは「人間とはなにか」ということ。

そのヴィジョンとはなにか。

そして統合的にそれを見て描いていくという。

どんなに科学が発展しても、わからないのは「私たちは何者か」ということ。

それを誰も発見できないでいる。

 

ゼミは途中休憩を挟んで3時間。

一遍して語られたのは、「人間である私を人間でないものとのかかわりを通してみていく」ことであり、

また、その果ての「人間中心主義が行き詰っている」という現代の問題かと思った。

 

人間は人間でないものに侵されて生かされているという。

太陽の光の粒子が私たちのからだを貫いているということ、

最近よく言われるようになった、人間の腸には人間の細胞の数を越えるバクテリアが存在していて、

それによって私たちのからだの健康が保たれているということ。

さまざまな「人間でないもの」と関わりながらこの命が生かされている。

 

森田さんは、からだを通して考えることに興味を持っておられて、

からだを使った新しい学問を作りたいと考えられていただけど、

次第に社会におけるからだとは組織だと考えるようになったという。

個人レベルではなく、組織レベルで、そして組織としての身体性について興味を持つようになったという。

 

人間でないものに生かされている人間はその歴史をさかのぼってみていく中で、

どんどん人間中心主義に向かっていくことがわかる。

その起源は約1万年前、人類が農耕を始めたころにまでさかのぼるのだと。

それは地球の気候が安定し始めた時期で、人間が農耕を始め、

そのころからの人間活動が、詳しく調べるとその農耕から余剰が生まれ、

余剰をどうするかと考える中で経済活動が始まったのですね。

 

経済。

経済活動という人間活動が生まれたところから、

環境の変容に影響を与え始めてるのだともいえます。

森田さんは、イギリスの産業革命で活躍したジェームズ ワットの

1784年の蒸気機関の設計を完成させたこのときからとも言われます。

ワットは電気の単位にもなっている。

 

農業の始まりにより経済活動が生まれ、土地の所有などの動きが起こり、

その中で富むものと貧しいもの、支配するものと支配されるものとの関係性もできていく。

 

所有。

もともとこの地球は、土地は誰のものでもないはずなのに。

土地には微生物から始まり、さまざまな動物、植物が生きている。

今私のいるその場の下ではどんなことが起こっているのか。

街のいたるところがアスファルトで固められたその下で生き物たちはどうしているのかなんて考えたこともない。

同じように私たちのからだも20億年前に発生したバクテリア

私のからだのエネルギーを作り続けてくれているということも知りもしなかった。

 

下や中という目には見えないところでの生命活動に私たちの命が生かされているという事実。

 

3時間のお話はほんとに面白くて、ときに森田さんが幼いお子さんとのやりとりに

ついても話されたりすることがまた微笑ましくて。

書きたいことはもっともっとあるのだけれど、また次の記事で。

 

たくさんの書物を読まれ(しかも原書から)、

その内なる世界をどんどん更新していく研究者。

どこにも所属を置かないで自分自身だけで、人々に向けて発信されている。

これからはそんなふうにしがらみを持たず、自分の意見を外に向けて

発信していけるツールもたくさんある。

森田さん自身はネットなどにはあまり頼っていないようで、

書物やこういった各地でのお話し会を開くことで発信されている。

現代は見ることはないだろうけど、街角の辻舌鋒のようだ。

 

いつも「ご縁がありましたらいらしてください」とご案内の記事などに

ことばを書かれている。

街角で通りすがりに聞いたお話、だけどそれにハッとさせられ、

そうだったのかと知ることの面白さ。

なにかを知るということはその人を大きく変える。

ハッとすること、なるほどと思うこと。

それはまた、自分以外の世界と出会い続けることでもある。

私は私以外を通して私を創っていくともいえる。

 

数学する人生(新潮文庫)

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アリになった数学者 (たくさんのふしぎ傑作集)

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数学の贈り物

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それはただの人形だけど~メキシコの思い出~

6年前、メキシコでホームステイをした。

約2週間。

私を受け入れてくれた家族は私より1歳上のホストマザーとそのご主人、そして娘が3人に、孫が2人。

犬が4匹。

家族はみんなスペイン語だけを話す、だからコミュニケーションはスペイン語

私自身はスペイン語がどれくらい話せるかはわからない。

勉強していないし、外国語の物語の音を聴いて、鼻歌のように口ずさむということだけをしてる。

 

そもそも「どれくらい」ってところは何を基準にしていってるのだか。

外国語を勉強していれば、英語なら高校程度とか日常会話程度とかいうのだろうけれど、私は英語以外は勉強していないので測るものがない。

というか、高校程度に勉強はしていても、では自分自身は実際どうなのかは誰にもわからないのでは。

それを測る試験を受けてだって、「どのくらい」話せるのかはわかるもんじゃない。

目で見て測れるものでもなく、物質的に見せられるものでもないし、状況によっても変わったりするのに、「どれくらい?」という質問は外国語を話すということに関してはよくある。

 

 

実際のステイはわからないことたくさん、でも問題なく過ごせる。

わからないのにわかるっていう不思議な感覚も。

それはとても居心地が良いのです。

 

家のリビングに飾ってある聖母マリアの陶器の置物。

それを見るたびにいつも同じことを思い出す。

 

メキシコでホスト家族と街へ繰り出し、買い物してた時。

お土産屋の一角でホストマザーがこの置物を見つけ私のために買ってくれたのだ。

そのとき、その置物を手に取りながらホストマザーが一緒にいた家族に

「Y(わたし)は宗教が違うからお土産にはこれでいいと思うの」と言ってたとその瞬間感じたことを覚えてる。

なぜなら、それを聞きながら私は同時に

「たしかにカトリックじゃないけど、聖母マリアは好きだし」って思ったからだ。

その人形はちょっと漫画チックな顔立ちで、聖母マリアを好きな私はもう少し違うタイプのもの、宗教色が強く感じるものでもいいと思ったから。

 

そのスペイン語がどういう組み立てだったか、それはまったくわからない。

でもその瞬間、音は聞こえていたけれど、聞こえていず、ホストマザーが言ったことの本質だけが耳に飛び込んできたという感じに思う。

耳でもなかったのかも。

からだ全体で本質を感じ取ったといってもいいくらいの体験。

 

そしてそのことをこの人形を見るたびに思い出す。

 

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