それはただの人形だけど~メキシコの思い出~
6年前、メキシコでホームステイをした。
約2週間。
私を受け入れてくれた家族は私より1歳上のホストマザーとそのご主人、そして娘が3人に、孫が2人。
犬が4匹。
家族はみんなスペイン語だけを話す、だからコミュニケーションはスペイン語。
私自身はスペイン語がどれくらい話せるかはわからない。
勉強していないし、外国語の物語の音を聴いて、鼻歌のように口ずさむということだけをしてる。
そもそも「どれくらい」ってところは何を基準にしていってるのだか。
外国語を勉強していれば、英語なら高校程度とか日常会話程度とかいうのだろうけれど、私は英語以外は勉強していないので測るものがない。
というか、高校程度に勉強はしていても、では自分自身は実際どうなのかは誰にもわからないのでは。
それを測る試験を受けてだって、「どのくらい」話せるのかはわかるもんじゃない。
目で見て測れるものでもなく、物質的に見せられるものでもないし、状況によっても変わったりするのに、「どれくらい?」という質問は外国語を話すということに関してはよくある。
実際のステイはわからないことたくさん、でも問題なく過ごせる。
わからないのにわかるっていう不思議な感覚も。
それはとても居心地が良いのです。
家のリビングに飾ってある聖母マリアの陶器の置物。
それを見るたびにいつも同じことを思い出す。
メキシコでホスト家族と街へ繰り出し、買い物してた時。
お土産屋の一角でホストマザーがこの置物を見つけ私のために買ってくれたのだ。
そのとき、その置物を手に取りながらホストマザーが一緒にいた家族に
「Y(わたし)は宗教が違うからお土産にはこれでいいと思うの」と言ってたとその瞬間感じたことを覚えてる。
なぜなら、それを聞きながら私は同時に
「たしかにカトリックじゃないけど、聖母マリアは好きだし」って思ったからだ。
その人形はちょっと漫画チックな顔立ちで、聖母マリアを好きな私はもう少し違うタイプのもの、宗教色が強く感じるものでもいいと思ったから。
そのスペイン語がどういう組み立てだったか、それはまったくわからない。
でもその瞬間、音は聞こえていたけれど、聞こえていず、ホストマザーが言ったことの本質だけが耳に飛び込んできたという感じに思う。
耳でもなかったのかも。
からだ全体で本質を感じ取ったといってもいいくらいの体験。
そしてそのことをこの人形を見るたびに思い出す。