大きいわたしと小さいわたし
なんでそんなことに気づかなかったのか!と思うときがある。
こどもの絵本とか、詩とかあまり関心持ってなかった分野に興味が。
きっかけはこれ
仲間はみんな小さな赤い魚だけれど、スイミーだけは小さな黒い魚。
みんなと楽しく暮らしてた。
あるとき、大きなまぐろがやってきてスイミーたちを襲う。
まぐろは仲間たちをみんな飲み込んでしまうが、
スイミーだけは生き残る。
ひとりぼっちになったスイミー。
暗い海の中を一匹で泳ぐ。
こわくてさびしくて
そこで出会う海の生き物たち。
くらげや海老や、うなぎや、いそぎんちゃくとか。
見たこともない姿の生き物たち。
そして再び出会う同じ姿の小さい魚たち。
みんなで固まって大きな魚の形になってみる。
スイミーは一匹だけ黒い魚だから、目になった。
その姿を見た他の大きな魚たちがどんどん逃げていく。
そんな内容。
ずっと、「みんなで協力すればできないことはない」っていう解釈でいた。
なんと単純な。
と、思ったのは「大きい私(大我)と小さい私(小我)」の話を友人にしたときだ。
「他人の痛みはわからない、他人の心もわからないのは、それは小さいほうの自分からしか見ていないからだ」
小さい自分とはなにか?では大きい自分とはなにか。
大きい自分は「森羅万象すべて、深いところの自分はすべてであり、すべての事象とつながっている」
小さい自分は「それぞれが別々の人間」
「小さい私は自分のことだけだけれど、大きい私は他者の痛みや悲しみを理解できる」と話したら、「それってスイミーだよね」と答えてくれたことだった。
スイミーってあの魚の物語?
それがそんな意味を持った物語なのか。
と、それでこの絵本を借りてまた読んでみることにした。
スイミーはひとりぼっちになってから旅をする。
そこで見たこともない姿かたちの生き物たちに出会っていく。
絵本は、一番たくさん絵が描かれているところが作者が言いたいメッセージが込められているのだそうだ。
だからそこのところをよくよく考えてみると良い。
スイミーでは、
このひとりぼっちのスイミーが海の生き物たちに出会っていく場面に多くのページが割かれている。
孤独な旅人。
人間の人生も同じ。
人間はみんな生まれてくるときも死ぬときもひとりだけれど、
実は人生をすべてたったひとりで旅している。
親がいてもこどもがいても、伴侶がいても、友だちがいても人間は結局ひとりで自分の人生を創っていく。
そのひとり旅で出会うできごと、人々。
そこで体験すること、感じることが「わたし」を変えていくのか。
生きているとは感じることがすべてと私は常々思っているのだけど、
感じて、何ごともなく過ぎていくのではなく、変化していく。
それが昨日のわたしと今日のわたしは違うということともいえる。
そうでなければ、生きてる意味なんてあるのかな。
生きている意味。
旅の果ての行きつく先は「すべてに繋がっていく」こと
こころ?いのち?それともなんだろう、たましいとか?
小さいわたしは大きいわたしを目指すのではないかと。
生まれてきて死ぬまでの人生に意味があるとするなら
きっとそれではないかと。